悩める羊飼い

筆者は普通自動車運転免許で乗れるハーレーダビッドソンもどきを愛用している。
キープレフト、そして信号機がある交差点で二段階右折を除けば、中々燃費が良く小回りも効く打って付けの移動手段である。


お天気の良い日は、自転車に追い抜かれるくらいの速度で、のんびり走るのが良い。皆さんそんなに急いで何処に行くのだろうか…。

 

雑司ヶ谷音楽堂から目白坂方面へ向けて走行中のことである。前方の歩行者用信号が赤色に変わったことで、車道の信号も赤に変わるかもしれないと予測をした。加速をすれば交差点をギリギリセーフで通過することができる。しかし、筆者は横断歩道の手前で信号待ちしている歩行者を見て、速度を落とすことにした。歩行者の見切り横断を危惧しているのだ。

 

その信号待ちの交差点において、左側の大きな教会入口付近にある掲示が視野に入る。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」 この様な主旨のことが書かれていた。

 

筆者は思う。幸せである者が羊飼いになるか、幸せでない者が羊飼いになるかによって、羊たちの運命が左右されてしまうであろう。自分が幸せでないのに人を幸せにするゆとりがあるのだろうか…。人の幸せに注力するあまり、自分の幸せを犠牲にしてしまう方が居るかもしれない。まず自分の幸せを願うべきではなかろうか…。人の幸せを願う為には、まず自分の心にゆとりを持たなければならない。この環境作りから始めるのが筋であろう。


心のゆとりを見直す機会を作るのは羊飼い自身。

 

この先、肩の荷が降りたと自覚ができるのも羊飼い自身。

 

少しずつ重くなって行った肩の荷は、少しずつ軽くして行かなければならない。

 

焦りは禁物である。何事にも心の準備を必要とするかもしれない。


このまま何も変えなかった場合、悩める羊飼いが向かう先で待ち受けているものとは何だろうか…。
(ノ-_-)ノ

筆者は針の穴から天を覗くのが好きである。