愛着のある小道具

 

筆者には独立開業して今日に至るまでの間、一緒に歩んで来た愛着の小道具がある。愛着の小道具とは500円程度で買える文具用カッターのことであり、大したものではない。

 

 

カッターにも価格のピンキリがある。100円以下で買えるもの、人間工学に基づいて作られたものは900円位。そしてグリップの部分が胡桃や山桜の木などで作られているもは5,000円位、一番高価なもので20,000円と結構な開きがある。

 

 

それならば筆者の野心として、貴重な赤樫(あかがし)の木をグリップにしたカッターを作ってみたいと思う。赤樫は堅すぎて削るのに手間暇が掛かるので面倒だ。著名な芸術家の先生に相談のお願いでもしようものならば、創作の合間にお作りくださるとはいえ、形状や模様に拘るから1本で2ヶ月は掛かるかもしれない。それでは諦めることにしよう。諦めも肝心である。諦め癖が付いた筆者は初老になっても諦め癖が治らない。だから若い皆さんは達成癖を付けましょう。

 


筆者が使用しているカッターは、グリップが手垢で汚れても掃除をしない。 汚れは経年変化と見なし愛着を感じているのだ。愛着のあるカッターはドン・キホーテと一緒に旅をする痩せ馬のロシナンテみたいなものであり、滑稽なところは筆者そのものである。いい加減お互いに初老染みて、身なりもお粗末な上、決して風貌も良いは思えない。

 

 

くたびれたロシナンテみたいなカッターが16年間、筆者に対してあらゆることをを授けてくれた。 それを踏まえるとロシテンテの精神的な存在価値は大きい。それ故に新しい道具に変えて作業効率を良くしたり、新たな経年変化を楽しもうとは思わない。特に壊れるようなこともないので変える必要がない。16年間も使い続けているカッターのロシナンテに愛着を感じているのだから手放す必要がないのだ。

ただ、それだけのことである。

 

 

今日も愛着のある小道具に使われている筆者。小道具も筆者に愛着を感じているかもしれない。小道具は筆者の身体の一部であり、すでに同体化をしている。幸をもたらす良性の腫瘍であるからして、あえて切り離す必要はないのだ。小道具は16年間、筆者にツキを持たらせて来た。これからも定期的にツキを回して来るであろう。新しい小道具が必ずしも幸のツキを持たらすとは限らない。ツキには表と裏があり、表と裏の大きさは比例をしている。それが自然の摂理である。ちなみに筆者なりのツキとは何か? ツキとはチャンス(機会=御縁)である。

 


一番判りやすいのは宝くじを買えば当たる確率は0ではない。その一方で宝くじを買わなければ当たる確率は0である。宝くじに当たるも当たらないも単なる偶然に過ぎない。この世の中にはチャンスを生かして幸をもたらす出来事がたくさんある。損得勘定で判断できない所に幸の新芽が芽吹いていることに気が付いて欲しい。新芽で終わらせるか、終わらせないかは当事者次第である。筆者も少しは美が分かるようになって来たであろうか…。

 

 


【余談】
もしも筆者が著名な人間国宝の芸術家の先生より、赤樫の木をグリップにした上、模様を施したカッターを譲り受ける機会に恵まれたならば、先生に貸し借りなしを確認したうえで、遠慮なく頂戴をする。それでも心が揺らぐであろう。もしかしたら筆者は揺らいだ心に未熟さを痛感し、先生のご厚意を改めて辞退するかもしれない。(心が未熟だったら辞退はできない)

 

 

メジャーリーグのイチロー選手が国民平和賞の授与を辞退された時に述べた言葉があった。「大変光栄でありがたいお話なのですが、まだ現役で【発展途上】の選手なので・・・」ということが主旨らしい。大変感銘を受けるイチロー選手のエピソードであるが、作業用に使う小道具のカッターは現役選手が使うグローブやバットみたいなものであり、使わなければ宝の持ち腐れとなってしまう。だからこそ有形物として有効活用をすべきである。きれいごとも言っていられない。「損か得か?」それとも「幸か不幸か?」この前者と後者のどちらに精神的な存在価値があるかを判断するのは、選択側の当事者次第である。そのようなことに捉われないことを無礙(むげ)という。無礙という言葉は永福町のソノリウムというコンサートホールの前にある、お寺の門前掲示物で知り得たことである。コンサートの開演時間に間に合わず、前半の部が終了するまでの間、辺りを散策していたら見掛けたまでのこと。満更遅刻するのも悪くない。ちなみに筆者は敢えて無下(むげ)な言い回しをすることがある。そこに悪気はない。

 

 

【補足】参考リンクページ

赤樫(あかがし)

グリップが天然木のカッターナイフ/20,000円

ドン・キホーテ

ロシナンテ

無礙/む げ 【無碍▼・無礙▼】
無下/む げ 【無下】